世界一周: ポーランド 世界史さんぽ 世界遺産

負の世界遺産から学ぶこと。

8月21日は、来たかったとも来たくなかったとも言えない、なんとも複雑なアウシュヴィッツ収容所を訪れました。

人間がここまで非道になれるのかという歴史の1つであるアウシュヴィッツ。
今日ここを見学することができて、本当によかったと思います。
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いろいろ思うところもあるし、見学中も考えたし、これからもさまざまな折に思い出して考えることになると思いますが、この日記では聞いたこと、見たこと、事実を記載するにとどまりたいと思います。

間違いなく楽しい話ではないので、苦手な人はこの記事は読み飛ばしていただいた方がいいかも知れません(汗)。そしてたぶん、長くなります・・・・(自分の防備録をかねているので)。

今回の見学は、アウシュヴィッツで唯一の公式日本人ガイドである中谷さんにお願いしました。
(中谷さんのことは、このブログにコメントを下さった Nori さんに教えていただきました。Noriさん、本当にありがとうございました! おかげでとても内容の濃い見学をすることができました!)

私のほかにも、ご夫婦が多かったのですが約10名ほどの参加者がいらっしゃいました。こんなに日本人に会ったのは、相当久しぶりです。

アウシュヴィッツは、ポーランドの南にあるオシフィエンチムという町にあります。もともとオシフィエンチムという名の収容所だったようですが、途中でドイツ語のアウシュヴィッツという名前が付けられました。

ポーランドだけで、強制収容所は3箇所。現存するのはそのうち2箇所で、アウシュヴィッツ1とアウシュヴィッツ2です。アウシュヴィッツ2の方は、その地名から「ビルケナウ収容所」と呼ばれています。

そもそも強制収容所とは何なのか・・・? いつからあるものなのか・・・・。

  • 強制収容所は、ヨーロッパ各地で10箇所ほどあった。全ての強制所をベルリンから管理していた。
  • 一番最初にできた収容所は、1933年設立。戦争が始まる6年も前のこと。この1933年と言うのは重要な年 - アドルフ・ヒトラーが総裁になった年。
  • 政治的、思想的に危険な人物を隔離するための施設というのが表面上の存在理由。アーリア人至上主義も。
  • 最初は、ポーランド人を中心にいろいろな国の人間が収容所へ送られてきた。しかしながら、ドイツの国家政策により、徐々にユダヤ人の占める割合が増加。最終的にユダヤ人100万人がこの収容所で命を落としたとされる。

ヨーロッパのありとあらゆる場所から、アウシュヴィッツに人々が送り込まれてきました。
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第一次世界大戦で大敗し、膨大な借金を抱え途方に暮れていたドイツ。
最初は小さなウワサから始まったユダヤ人への憎しみが、最終的に国家政策にまでなってしまうほど病んでいたのでしょう。。。

「オレたちがこんな生活をしなければならないのは、ユダヤ人のせいだ」
「ユダヤ人が持っているものは、もともとオレたちドイツ人のものだ」
「ユダヤ人を根絶やしろ」

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(訳: ユダヤは、完全に根絶やしにされるべき人種である)

もそも、「ユダヤ人」という人種は存在しません。
ユダヤ教徒を便宜的にユダヤ人と言うだけで、世界中に住んでいます。しいて言うなら、イスラエル人? 私の同僚にもユダヤの人はおりました。
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(われわれは、ポーランド、ロシア、ユダヤそしてジプシーからドイツ国家を解放せねばならない)

ここアウシュヴィッツで命を落とした人の、正確な人数は分かっていません。と言うのも、ここに運ばれてきて、直接ガス室送りになってしまう人が後を絶たなかったからです。
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上記の数字は、「最低でもこの人数はいた」という数です。そして見てお分かりの通り、ユダヤ人の桁が1つ違います。

監視エリアへのゲート。有名ですね。
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ゲートには「ARBEIT MACHT FREI」と書かれています。

働けば自由になれる。
The work gives freedom.

ここで一生懸命働けば、その後自由が待っているよというありもしない言葉を掲げ、囚人達を働かせる口実にしていました。

左から3つめの『B』が、さかさまになっています。これは収容された人々のせめてもの抵抗だといわれています。
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ユダヤ人の中には、事業や芸術方面に秀でている人も少なくありません。もっともそれがドイツ人のねたみを買ってしまった理由のひとつだと思いますが・・・。そしてここの収容された人たちの中にも、そういった沢山の優秀な人々がいました。

その中から楽器を扱える人を選び出し、楽団を作ったのだそうです。あまりにも人数が多く、楽団が4つもできてしまったほどでした。
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上記の写真は、収容された人々が演奏している模様を撮影したものだそうです。
実は、写真左側にいる聴衆も囚人。というのも、これはナチス親衛隊が、「ここの収容所は問題なくやっていますよ」と外部にアピールするために、セットアップされたものだったから。

実際には囚人が音楽を聞かせてもらえるなんてことは、絶対にありえなかったのだそうです。

バラックの外には、美しいポプラが植えられていて、本当にここでそんなことがあったのかと目を疑いたくなるきれいな光景が広がっています。
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でも、このポプラの木々も、囚人が飢えさせられたもの。
植えたときは小さな苗木だったそうですが、今ではこんなに成長してしまっています。月日の流れを感じずにはいられません。

アウシュヴィッツ第一収容所には、約2万人の人が一度に収容されていたそうです。しかし日々ヨーロッパの各国から運ばれてくる人々を収容するには、キャパシティが足りませんでした。そのため、ここから3キロ離れたところに、第二収容所(ビルケナウ)を作りました。
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上記の写真で、中谷さんが指を刺しているのが第一収容所。そして、中谷さんの後ろに隠れてしまっていますが、そこにあるのが第二収容所、ビルケナウです。ぱっとみても、その大きさがお分かりいただけるかと思います。確か、アウシュヴィッツの7倍の収容能力を持っているとのことでした。

ドイツが戦争に負けてこの収容所もその機能を停止したわけですが、そのギリギリまで拡張工事が行われていたのだそうです。戦争に勝つことと同じくらい、ユダヤを根絶やしにすることが国家の最重要事項だったから・・・。収容所に連れてこられた人々の私物、特に貴金属などは全て没収されました。

大量の眼鏡。
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収容所に連行された人々は、人種に限ったものではありません。たとえドイツ人であっても、身体障害者や同性愛者などといった、「強い国家作りに不要と判断された人々」も強制的に連行されてきたのだそうです。

数々の義足。
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特にユダヤ人を連行する際は、「東の土地に移動すれば、自由に暮らせる」と誘い文句を言ってみたり、実際ありもしない土地の権利書などを偽装して、それを見せ信用させてつれてきたのだそうです。

そのため、彼らは沢山の身の回りのものをカバンに詰めて、強制収容所へやってきました。
そうすることで、ユダヤ人から没収して再利用できる品物が増えたわけですね。

大量のカバン
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子供も容赦なく、政治犯などとして連行されてきました。

子供の靴。
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こうして没収した物品は、単に物のリストとして個数だけを記載してベルリンの本部に送っていたのだそうです。ベルリン本部からは、「XXX何個に付き、いくら」と値段が付けられていて、その金額が収容所に支給される仕組みだったとか。
ここには一切人間の存在がありません。あるのは、ものと個数だけ。

大量に発見された大人の靴の一部
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没収された日用品
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没収されたものの中には、こんな見覚えのあるものもありました。
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「ニベアクリーム」の缶です。そんなに遠い昔の出来事ではないということが、改めて思い知らされます。

収容された人々は、脱走してもすぐ分かるように、青と白のストライプの服を着せられていました。
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その胸には、収容された理由を示したワッペンが縫い付けられていたのだそうです。
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こうすることで、囚人間にも格差をつけ支配しやすくなったのだとか・・・・。
ちなみに、特別囚人という人々がいて、収容されている人には変わりはないのですが、特権を与えられている一部の人がいました。彼らは、食事を配ったり、写真を撮ったりと、親衛隊の手足となって働く代わりに、長く生きることができたのです。

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何万人も収容されているのに、大暴動が起きなかったのかが不思議ですが、かなりシステマチックに運営されており、収容されている人々を少ない人数でコントロールするという、変な言い方ですがうまいやり方をしていたようです。

下の写真は、収容された時に撮られた子供の写真です。
1人付き、3枚撮るそうなのですが (正面、左右)、この写真を撮らされているのも、同じく収容されている人。
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真ん中の少女、実は唇が切れて血が出ているのです。彼女はポーランド人の少女なのですが、ドイツ語で「右向け」等と命令されても、ドイツ語が理解できず、殴られてしまったのだとか。そして、そのまま撮影されたので、唇が切れてたままの写真になっているのだそう・・・。

この話は、実際に撮影をさせられたユダヤ人の方が、数年前、90歳を超えてから語りだしたことなのだそうです。最近こうしたことが多くなり、徐々に当時のことがわかるようになってきたとのことでした。

整備された水洗トイレ
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子供の絵が描かれた洗面所
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このように、表面上は問題のない収容所に一見見えるところがすごいです。
中谷さんの言葉で印象的だったのが、「一部では、ここで働いていたナチスの人々は、我を失っていてしょうがなくやったんだと言われていますが、そんなことはありません。彼らは実に冷静に、計画的にここで起こった一連のことをやったのです」という言葉でした。

外部向けに公開する情報や、外向けに見せる部分と、内部の実態がきっぱり分かれているということからも、彼らが計画的だったということは容易に推測できます。。。。
ここは、名のある人が銃殺された場所。死の壁と呼ばれています。
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ユダヤ人をかくまったり、リーダー的存在だった人々を1人1人銃殺したのだそうです。
それも、15秒ほどの裁判にかけ、死刑判決が出てから。

これね、「死刑判決が出された悪人を退治する」という大義名分を作るためなんですって。こうして自分達の行いを正当化し、人々を処刑していったのです。
これは、死刑囚人の身代わりに亡くなってしまった牧師さんの追悼碑。
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長崎にも来た事がある牧師さんだったそうデス。遠藤周作さんの「女の一生」に出てくるのだとか・・。日本に帰ったら読んでみたいと思います。

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この煙突のある建物・・・・
これが、ガス室。
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とても小さな建物なんですよ。
ここに一度に何百人という人が詰め込まれて、天井に開いた穴からガス(チクロンB)が入れられました。
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ガスが入っていた大量の缶。
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この缶1つ分で、150人を殺せたそうです。
ガスを入れるのも、遺体を運び出すのも、遺体を償却するのも、全て同じ収容所の人々。そしてそれらは主に地下で行われ、ドイツ人たちからは見えないようにしていたのだそうです。
彼らの罪悪感を軽減するために・・・。

こちらは、ビルケナウ収容所。
博物館の無料シャトルで移動することができます。
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あまりにも広大な敷地のため、線路を引き込み中まで人を連行することができるようになっています。
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私ミーハーなんですけど、どうしてもここを見ると白い巨塔を思い出してしまうのです。(唐沢さんの方)

ドラマの中でここを訪れて、この線路を歩くシーンがあるんですよね・・・。
そのことを、中谷さんに聞いてしまいました(汗)。唐沢さんご本人もかなり興味を持って、アウシュヴィッツを見学されたのだそうデス。そして、唐沢さんに影響されて、その後佐々木蔵ノ介さんが一人でやってきたと言っていました。

あと、原作者の山崎豊子さんもここに何度もいらっしゃって、足が悪いのにここを一生懸命歩いていたのが印象的だったと仰っていました。。。

役作りや、思うところがあって、1人でいらっしゃる著名人の方も多いのだそう。
ちなみに、去年は過去最高の入場者数になったのだそうです。嬉しいやら悲しいやらと仰っていましたが、認知度が上がったおかげで、EUからも援助金をもらえることになり、政治家が動き始めたのは良いことです。(今現在、お昼くらいの時間帯は人が多すぎて、ガイド付きでしか入場できなくなっているのだそうです)

※ガイド料は40ズロチ(1,200円ほど)ですが、入館料は無料です。
※EUからの援助は、かなりの金額になるそうデスが、まだ3分の2しか集まっていないとのこと。そのうち、50%がドイツからの援助です。

これは、実際に使われていた貨物列車。
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これに人々がぎゅうぎゅう詰めになって、運ばれてきたのです。
そして、ここで「選別」が行われました。
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ここがアンネフランクが連れてこられた所。アンネは、ここビルケナウで2ヶ月をすごし、病で亡くなりました。

貨物列車を降ろされた人は、その場で医者によって選別されます。約2割の健康な人が収容所へ連れて行かれ、残りの8割はそのまま直接ガス室へ・・・・。人の命を預かる医者が、人の生死をここで決めたわけです。

これがガス室へ繋がる階段。
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このガス室は、ドイツ敗戦の直後に証拠隠滅のためナチスによって爆破されたのだそうです。
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こちらは、ビルケナウの収容所。
まさにアンネが2ヶ月いたところ・・・
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こんな狭いところに、藁をしいて、4,5人が寝かされていたのだそうです。
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戦争終了後、ここで働いていた人々(ナチス)は、殆ど罪に問われることはなく、むしろ「私達もだまされていた」と言ったのだとか。

でも、彼らのその言葉にはもしかしたらウソはないのかもしれません。
だって、ユダヤ人を排除することが「国家政策」だったのですから。誰一人として、異を唱えることができなかった状況。本当に恐ろしいです。
なお、ここの収容所所長に関しては、収容されていた人々に顔を覚えられていたため、終戦後捕まり、公開処刑されたとのことでした。

自分の家族とともに、ガス室のそばで暮らし、非人道的なことを日々行う・・・・。人間をこんな異常な感覚にしてしまうほどの強い信念って、一体どういうものなのか。もはや私の脳みそではわかりえません。

沢山のユダヤ人が犠牲になったアウシュヴィッツ。

でも、今はイスラエルという国を守るために、隣国の市民が被害にあっていることもまた、忘れてはいけないと思います。繰り返してはいけない歴史。でも、繰り返される歴史。

・・・ということで、午後2時から始まった見学も、予定より大幅に延びて5時半近くで終了。本当に沢山のことを学び考えた1日だったと思います。
ここに書ききれないことも沢山あるんですが・・・・。ここまで読んでくださった方がいたとしたら、お疲れ様でした。ありがとうございました。

今日生きていることを当たり前だと思わず、感謝すること。
旅をしてきて、改めて思っていることです。


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